ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 水戸市子どもホームページ > 水戸市の歴史(れきし)

本文

水戸市の歴史(れきし)

ページID:[[open_page_id]] 更新日:2023年2月20日更新 印刷ページ表示

地名の由来(ゆらい)

昔(むかし)から海や川の水の出入口を「みと」または「みなと」といい、那珂川(なかがわ)と桜川(さくらがわ)・千波湖(せんばこ)の間につき出た台地から「みと」と呼(よ)ばれました。

水戸周辺(しゅうへん)で人々が生活を始めたのは?

水戸周辺で人々が生活を始めたのは、今からおよそ3万年前の先土器時代(せんどきじだい)と考えられます。
その時代の遺跡(いせき)として十万原遺跡(じゅうまんぱらいせき)などがあります。

縄文時代(じょうもんじだい)~弥生時代(やよいじだい)の遺跡

縄文時代の遺跡としては、圷遺跡(あくついせき)や大串貝塚(おおくしかいづか)など、多くの遺跡や貝塚があります。
弥生時代に入ると、稲作(いなさく)が発展(はってん)した当時の遺跡として、大塚新地遺跡(おおつかあらじいせき)などが発見されています。

大串貝塚の画像
大串貝塚

古墳時代(こふんじだい)~飛鳥時代(あすかじだい)の古墳

4世紀末になってヤマト王権(おうけん)の力が水戸周辺にもおよぶと、古墳がつくられるようになりました。
5世紀になると、県内で3番目に大きい愛宕山古墳(あたごやまこふん)のような大型古墳(おおがたこふん)や、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)や円墳(えんぷん)が多数集まってできた牛伏古墳群(うしぶしこふんぐん)がつくられました。
さらに、古墳時代から飛鳥時代にさしかかる7世紀には、石室(せきしつ)に線刻壁画(せんこくへきが)をもつ八角形墳(はちかっけいふん)としては国内で唯一(ゆいいつ)である吉田古墳(よしだこふん)がつくられるなど、中国大陸(ちゅうごくたいりく)からの文化的(ぶんかてき)な影響(えいきょう)があったことがうかがえます。
愛宕山古墳の画像
愛宕山古墳

台渡里官衙遺跡群(台渡里官衙遺跡・台渡里廃寺跡)(だいわたりかんがいせきぐん(だいわたりかんがいせき・だいわたりはいじあと))

飛鳥時代の政治改革(せいじかいかく)「大化の改新(たいかのかいしん)」により、国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(郷(ごう))の制度(せいど)ができると、水戸は常陸国那賀郡(ひたちのくになかぐん)の一部となります。
今でいう役所に当たる郡衙(ぐんが)が、渡里町(わたりちょう)の台渡里官衙遺跡群にありました。

水戸にまちができたのはいつごろ?

平安時代(へいあんじだい)になると、水戸の政治の中心は、吉田神社の周辺に移(うつ)っていきます。
水戸に「まち」ができたのは、平安時代の末期(まっき)、常陸大掾(ひたちだいじょう)氏の一族(いちぞく)であった馬場小次郎資幹(ばばこじろうすけもと)が、今の水戸城跡(みとじょうあと)に館(やかた)を建(た)てたことにはじまるといわれています。
その後、明治2(1869)年の版籍奉還(はんせきほうかん)まで、水戸城を中心とする地域(ちいき)は常陸国(ひたちのくに)の中心地として栄(さか)え、その支配者(しはいしゃ)は、馬場(ばば)氏(240~250年間)、江戸(えど)氏(164年間)、佐竹(さたけ)氏(13年間)、徳川(とくがわ)氏(約260年間)と移っていきます。

水戸城の画像
水戸城大手門(おおてもん)

水戸徳川家(みととくがわけ)

慶長(けいちょう)5(1600)年の関ヶ原(せきがはら)の合戦(かっせん)をきっかけに、天下(てんか)は徳川の世となりました。

慶長14(1609)年、徳川家康(とくがわいえやす)公の11男・徳川頼房(とくがわよりふさ)公が水戸城主(みとじょうしゅ)になり、徳川御三家(とくがわごさんけ)のひとつ・水戸藩(みとはん)ができました。
頼房は、水戸の城下町(じょうかまち)を整備し、今のまちの原型(げんけい)がつくられました。
江戸時代の水戸は、関東では江戸に次ぐ都市となり、全国にその名が知られるようになりました。

光圀(みつくに)と斉昭(なりあき)

歴代(れきだい)の藩主(はんしゅ)の中でも有名なのは、第2代藩主の徳川光圀(とくがわみつくに)公と第9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)公でした。
光圀公は、笠原水道(かさはらすいどう)をつくり、下町(したまち)に飲み水を届けたり、道を整備したほか、日本の歴史を本にまとめたりしました。
斉昭公は、はば広い学問を取り入れた国内で最大規模(さいだいきぼ)の藩校(はんこう)・弘道館(こうどうかん)や、偕楽園(かいらくえん)をつくりました。

弘道館の画像城下町図
弘道館正庁(せいちょう)/江戸時代(元禄期(げんろくき)、1688~1704年)の水戸城下町図(じょうかまちず)

水戸市政(しせい)のあゆみ

水戸藩から水戸県、茨城県(いばらきけん)へ

明治4(1871)年に水戸藩は廃止(はいし)され、水戸県となりました。続いて、県の統廃合(とうはいごう)により、茨城県が誕生(たんじょう)しました。
水戸には、県庁(けんちょう)が置かれ、ひき続(つづ)き、茨城県の中心となったのです。

水戸市の誕生

明治22(1889)年4月1日、市制町村制(しせいちょうそんせい)によって、当時の上市(うわいち)と下市(しもいち)のほかに、常磐(ときわ)、細谷(ほそや)、吉田(よしだ)、浜田(はまだ)の4か村の各一部と合併(がっぺい)して、面積(めんせき)6.17平方キロメートル、人口25,591人の「水戸市」が、全国31市の一つとして誕生しました。
その後、官公庁(かんこうちょう)、学校、交通機関(こうつうきかん)などがつくられ、昭和(しょうわ)8(1933)年には常磐村を編入(へんにゅう)するなどして大きくなりました。
しかし、第2次世界大戦のさなか、昭和20(1945)年8月2日に、市街地(しがいち)の大部分が空襲(くうしゅう)を受けて焼けてしまい、多くの方が亡(な)くなりました。

戦後から高度成長期(こうどせいちょうき)

第2次世界大戦後、昭和24(1949)年から昭和33(1958)年までの間に、水戸市ととなり合う10か村と合併し、復興から「大水戸市建設(だいみとしけんせつ)」を目指しました

高度成長期の人口、市街地の拡大(かくだい)を経て、平成元(1989)年に市制施行(しせいしこう)100周年(しゅうねん)を迎え、1990(平成2)年には水戸芸術館(みとげいじゅつかん)がオープンするなど、文化都市としての発展してきました。
さらに、平成4(1992)年の常澄村(つねずみむら)との合併、平成17(2005)年2月の内原町との合併、そして、令和2(2020)年4月に中核市(ちゅうかくし)に移行(いこう)し、今日の水戸市は、人口約27万人を有する県都として、地方中核都市圏(ちほうちゅうかくとしけん)のリーダーとしての役わりを担(にな)っています。