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令和5年度「わたしたちの平和」作文コンクール

ページID:[[open_page_id]] 更新日:2023年7月25日更新 印刷ページ表示

コンクールの概要

子どもたちが平和への関心を高め,平和な社会・まちづくりについて共に考え,行動する力を育むことを目的として,「わたしたちの平和」作文コンクールを開催しました。

  • テーマ:平和の大切さについて私が思うこと,主張したいこと
  • 対象:市内の小中学校に通う小学5年生から中学3年生までの児童・生徒
  • 応募総数:6,502点
  • 表彰:最優秀賞 小学生1名・中学生1名,優秀賞 小学生4名・中学生6名,佳作 小学生7名・中学生8名  計 27名

令和5年7月15日(土曜日)表彰式

令和5年7月15日(土曜日)水戸市総合教育研究所にて表彰式を行いました。
入賞された皆さん,おめでとうございます!
集合写真
優秀な成績を修めた児童・生徒12名について,8月に広島市で行われる平和記念式典等に参加する「平和大使」として任命しました。

審査結果 

最優秀賞

学校名 学年 氏名(敬称略)
水戸市立渡里小学校 第6学年 小泉 裕貴
茨城中学校 第2学年 藤沼 里彩

 

優秀賞

学校名 学年 氏名(敬称略)
水戸市立吉沢小学校 第5学年 高橋 恵莉菜
水戸市立稲荷第二小学校 第5学年 三浦 靖馬
水戸市立寿小学校 第6学年 植田 咲
水戸市立酒門小学校 第6学年 安村 夏奈羽
水戸市立国田義務教育学校 第7学年 中間 汐音
茨城中学校 第1学年 高柳 ひかり
水戸市立見川中学校 第2学年 櫻井 梓璃彩
水戸英宏中学校 第2学年 奥村 颯真
水戸市立常澄中学校 第3学年 坂本 はづき
茨城大学教育学部附属中学校 第3学年 園部 亜唯彩

 

佳作

学校名 学年 氏名(敬称略)
水戸市立渡里小学校 第5学年 小松澤 佳美
水戸市立吉田小学校 第5学年 綿引 愛花
水戸市立稲荷第一小学校 第5学年 人見 彩花梨
水戸市立五軒小学校 第6学年 稲田 光孝
水戸市立常磐小学校 第6学年 大間知 遥乃
水戸市立国田義務教育学校 第6学年 公文 樹
水戸市立稲荷第一小学校 第6学年 大場 星寧
水戸市立笠原中学校 第1学年 金木 みなみ
茨城中学校 第1学年 若松 あかり
水戸英宏中学校 第1学年 関本 百々花
水戸市立第五中学校 第2学年 渡部 由彩
水戸第一高等学校附属中学校 第2学年 鈴木 悠生
水戸市立第四中学校 第3学年 松塚 若奈
水戸市立見川中学校 第3学年 𫝆泉 佑惟
水戸市立笠原中学校 第3学年 椎名 美月

最優秀賞作文(小学生の部)

「モヤシにこめられた戦争への思い」  水戸市立渡里小学校 6年 小泉 裕貴

「ひいおじいちゃんは戦争に行って,モヤシがきらいになったんだって。」
 食事中,父がモヤシの料理を食べながら,ぼくにそう教えてくれた。父方の曾祖父は,戦争中,軍艦に乗っていた。そこで,あきるほどモヤシを食べたからきらいになってしまったそうだ。ぼくは,戦時中,曾祖父がどのような生活をしていたのかをもっと知りたくて,祖父にもくわしく聞いてみた。
 ぼくの祖父の父,曾祖父は戦争中,海軍に所属していたそうだ。大ほうを打つ方向を指示する役目で,船や大ほうの大きさ,ねらいを定める訓練の様子を,祖父に話してくれたことがあると言っていた。長期間,海にいる軍艦での食生活は,生野菜を置いておくこともできず,とても不自由だった。モヤシはかんそうした大豆の状態で持っていくことができる。かっけにならないためには唯一の生野菜であるモヤシを食べないといけなかった。しかし,それ以上の戦争の話はくわしく話してくれなかったそうだ。それは,つらく悲しい思い出を口に出せず,そして,子供につらい戦争の話を聞かせたくないという親心だったのではないか,と祖父は悲しそうに言っていた。
 太平洋戦争中,日本の主力は戦艦だったが,他の国は航空機を主力としていて,日本の兵器は他の国よりおとっていた,と本で読んだ。軍人が最後まで「お国のために」と戦って死んでいく様子や,海上でも特攻隊が結成され,命をかけて敵へつっこんでいく様子が書かれていて,読むと胸が苦しくなった。そして,ぼくの曾祖父も,こんな場所にいたのかと初めて気付いた。戦争が身近なものに感じられてとても怖くなった。
 曾祖父は戦争についてくわしく言わなかったけれど,ぼくは戦争の怖さを少しだけ知った。モヤシがきらいになったのも,あきたからではなく,家族にも言えない戦争のつらい記憶を思い出してしまうからだと思う。平和に暮らしていると,戦争は遠い国の出来事のように感じる。しかし,戦争で戦っている人はだれかの大切な家族であることを忘れてはいけない。そして,だれかの大切な人を傷つけたり,命をうばったりする戦争を許してはいけないと強く思った。
 これまでの戦争の悲さんさを知り,二度と戦争を起こさないように深く考えることが,平和を守る第一歩だと思う。そして,暴力で解決するのではなく,相手と話し合って解決する社会を当たり前にしたい。そのためには,学ぶことが必要だと思う。たとえば,相手の文化や歴史を学ぶことで,自分の生活や考え方とはまったくちがう人がいると知ることが出来る。自分とちがうことや知らないことに対して優しく受け止めて,相手の言動のきっかけとなる理由や背景を想像できたら,争いごとを減らせるのではないか。今の平和な暮らしを守るために,ぼくが出来ることを少しずつ積み重ねていきたい。

最優秀賞作文(中学生の部)

「祖母が教えてくれた夏」  茨城中学校 2年 藤沼 里彩 

 「ドーン。ドーン。」地面を震わす音が次々と鳴り響く。小学校四年生の夏休み,祖母の家で聞いた千波湖の打ち上げ花火の音である。私と妹は花火が見たくて夢中で外をみつめた。その時祖母は花火の音を怖がった。私は、不思議に思った。そして,祖母に理由を聞いた。思ってもいない答えが返ってきた。花火の音が戦争中に落ちてきた爆弾の音に似ているというのだ。今まで祖母が戦争の話をしたことがなかったので私はとても驚いた。
 祖母は日立市に生まれ,日立市で育った。当時,日立市は軍需工場地帯だったため,米軍の攻撃の標的となった。一九四五年頃,祖母が六歳だった夏,日立市は大空襲にあった。一トン爆弾が五百発以上落とされ,空襲だけではなく,艦砲射撃の被害も受け,千五百人以上が亡くなったそうだ。祖母は,防空壕の中に避難して無事ではあった。が,防空壕から出て,最初に見た景色はいつもの街とは全く違っていて,一面が焼け野原であった。祖母と仲の良かった小学校の友達も亡くなってしまったそうだ。
 その他にも,当時は学校帰りに空にB29という戦闘機が現れると,川に入って目をおさえて,身を伏せて,B29が通り過ぎるのを待ったこと,食べるものがなくて,いつもお腹をすかせていたこと,甘いものが貴重だったこと・・・など,今では考えられないような話も聞いた。私は辛い気持ちになったが,もっと知りたいという思いが強くなり,「もっと教えて。」と祖母に頼んだ。しかし祖母は,「思い出すのが嫌なんだ。」といい,それ以上は教えてくれなかった。祖母は,戦争の悲惨さ,辛さを思い出すのが本当に苦しかったのだと思う。その後,祖母は私に「戦争は二度と嫌だ。戦争なんて絶対にやってはいけない。学校に行って勉強できるっていうのは本当に幸せなことなんだよ。」と言った。祖母が話す様子は,穏やかであったが,言葉にはとても重みがあった。
 この話を聞くまでは「戦争」を身近に感じたことはなかった。遠い昔の,過去の出来事だと思っていた。でも現実に,この国で戦争があり,たくさんの命や,人々の生活が奪われたのである。私が毎日,学校に通い,勉強し,家族や友達と生活していけるのはあたり前ではない。この生活が,送れるのは本当に幸せなことなのである。きっと祖母は,私にそう伝えたかったのだろう。
 昨年,戦争の体験を話してくれた祖母が亡くなった。祖母や当時の人々から,多くのかけがえのないものを奪った戦争は,私は本当の意味で理解することは難しいかもしれない。しかし祖母の思いは確実に私に伝わっている。この思いを胸に私は生きていく。「絶対に戦争はしない。」平和の尊さを私たちの未来を生きるたくさんの人たちにまで伝えていかなければならない。この先を生きていく全ての人が,悲しくて辛い過去をくり返さないようにするために。