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子どもたちが平和への関心を高め,平和な社会・まちづくりについて共に考え,行動する力を育むことを目的として,「わたしたちの平和」作文コンクールを開催しました。
令和4年7月2日(土)水戸市役所にて表彰式を行いました。
入賞された皆さん,おめでとうございます!
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立常磐小学校 | 第6学年 | 菊池 七愛 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第3学年 | 島田 和子 |
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立双葉台小学校 | 第5学年 | 谷島 佳菜 |
水戸市立稲荷第一小学校 | 第5学年 | 坂本 馨 |
水戸市立河和田小学校 | 第6学年 | 増田 真衣 |
水戸市立千波小学校 | 第6学年 | 松田 麻央 |
水戸市立第三中学校 | 第1学年 | 桑原 結都 |
水戸英宏中学校 | 第1学年 | 森口 暁文 |
水戸市立第四中学校 | 第2学年 | 綿引 優花 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第2学年 | 中垣 美咲 |
水戸市立第一中学校 | 第3学年 | 久保田 優花 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第3学年 | 西森 咲季 |
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立三の丸小学校 | 第5学年 | 山下 真歩 |
水戸市立国田義務教育学校 | 第5学年 | 高安 啓史郎 |
水戸市立飯富小学校 | 第5学年 | 笹島 那心 |
水戸市立千波小学校 | 第5学年 | 小澤 明日香 |
水戸市立飯富小学校 | 第6学年 | 弓野 亮太朗 |
水戸市立新荘小学校 | 第6学年 | 高木 聖祈 |
水戸市立第四中学校 | 第1学年 | 向原 文花 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第1学年 | 海老根 理咲 |
茨城中学校 | 第1学年 | 藤沼 里彩 |
水戸市立緑岡中学校 | 第2学年 | 西村 明紗 |
水戸市立国田義務教育学校 | 第8学年 | 石川 唯愛 |
水戸市立第四中学校 | 第2学年 | 𠮷川 和花 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第2学年 | 正木 文乃 |
水戸市立内原中学校 | 第3学年 | 丹下 愛子 |
水戸市立飯富中学校 | 第3学年 | 原田 夢彩 |
「幸せそうに食べるねえ。平和なことだ。」
今年97歳になるひいおばあちゃんは,私の生きている今をいつだって平和だと言って笑ってくれる。今日はついてないな,と思っても,となりで笑うひいおばあちゃんにつられて私も笑顔になる。
ひいおばあちゃんは過去のいろいろな積み重ねがあるから,毎日あたりまえの時間や出来事に幸せを感じることができるんだ。私たちの幸せがこの先もずっと続いていきますように,と願ってくれているのだろう。
広島・長崎が原子爆弾による空爆を受けてから今年で77回目の夏が来る。世界で唯一核兵器が使用されたこの戦争では,たくさんの命がうばわれた。戦争を体験したひいおばあちゃんは8月になるとまっ黒な空,貧しかった生活,生きているのがつらかった日々を思い出しては,もう二度とあんな経験はしたくないと言い,声をつまらせる。食べるものはいもやすいとん,着るものもお風呂もなく毎日顔も洗えなかった。そんな生活を想像しただけで私はいつも気の毒に思うのに,ひいおばあちゃんは運が良かったと思って生きてきたと言う。たくさんのことに感謝して,幸せを感じ,もっと強くなろうとしたのだろう。だから今は次の世代にこの戦争という体験を語り継いでいかなくてはならない,と私に話してくれた。
戦争体験者の高齢化により,戦争の伝い手が減少していることが日本の課題になっている。今も世界では戦争が起きていて,苦しんでいる人々がいる。人の手によって引き起こされる戦争は,人の手で無くすことができるのではないか,と私は思っている。
人から感じる優しさや温もりは受け取った人の心を豊かにしてくれる。そして自分もだれかに優しくしようという気持ちになる。そんな優しい気持ちで相手を思いやることができたなら,世界はたくさんの優しさに包まれていくだろう。いじめや戦争のない,明るい未来を私は想像することができる。
今生きていることをもう一度考えてみよう。どんな人にも皆ご先祖様がのこしてくれた大切な命が宿っている。私もひいおばあちゃんから受けとった命と平和のバトンを残していけるよう,自分を大切にするだけでなく,他人のことも大切に思える人になりたい。今の生活に感謝して,幸せを受け継いでいきたいと思う。他人が喜ぶこと,笑顔になれることを意識して生活していくことができればきっと平和も広がっていくにちがいない。
平和だ,と言って笑い合える毎日がこれから先も続きますように。そしてこんな風に私のあたりまえの毎日の生活が平和であるということをいつも教えてくれるひいおばあちゃんにも感謝して生きていきたいと思う。
水戸は私の古里です。しかし,水戸空襲のことについてよく知りませんでした。インターネットで史料を探していると,自宅近くにある薬局の一家の記録を見つけました。「我が家の戦災記録-昭和20年8月2日水戸空襲-」と題し,当時,女学生だった薬局の長女が書いた水戸空襲当日のドキュメントであり,復興までの道のりです。
記録には,末広町や東原,偕楽園,常磐小学校など馴染みのある地名や建物が登場します。空襲の中,大工町から今の堀原運動公園まで兄弟3人で避難する様子が書かれています。私は同じ長女として著者に親近感を抱きました。そして,恐怖に耐えながらも,弟と妹を気遣う姿に感心させられました。私とそれほど年が変わらない3人が,父とはぐれ,深夜,被災する街の中を避難するのはどんなに恐ろしかったことでしょう。
記録を読んで驚いたことがあります。空襲の前日にアメリカ軍が市民に空爆を予告し,避難を呼び掛けるビラを撒いていたことです。さらに憲兵や警察がこれを「デマ」として宣伝し,回収してしまったことです。警告したからといって民間人がいる街を無差別に空爆することは許されません。ただ,少なくとも民間人だけでも避難させていれば,被害を抑えることができたのではないでしょうか。救える命があったということを考えると,とても悲しくなります。
今でも同じようなことが起きているのではないでしょうか。戦地では,うそや情報操作がたくさんあって,市民に正しい情報が伝わりにくくなります。戦争は理不尽に市民を巻き込み,戦いに駆り立てています。ロシアとウクライナの戦争をニュースで見ると,現実にあることなのだと恐ろしくなります。記録では,焼夷弾によって家と蔵を失った一家が翌日からバラックとトタンで家の再建に取り組んでいます。ご近所同士で家とドラム缶風呂を共有するなど,助け合い,支え合って復興を目指します。たくさんの人たちの苦労があって,水戸の街が復興していったのだと思いました。
朝,登校する際に記録に登場する場所を通ると,「ここはお父さんがやけどをして消火用水をかぶった角だ。」とか,「この小道は焼夷弾で真っ赤に火の手が迫っていたんだ。」といったことを思い出します。それまで単なる歴史の一部だった水戸空襲が身近に感じられるようになりました。昔の人たちの苦労が今の私たちの暮らしの礎となっていることを実感できるようになりました。
そこで気づきました。著者が残しておきたかったのは,「古里,水戸がいつまでも平和な街であるように」との願いだったのではないでしょうか。私はその願いを受け止め,引き継いでいこうと思います。