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子どもたちが平和への関心を高め,平和な社会・まちづくりについて共に考え,行動する力を育むことを目的として,「わたしたちの平和」作文コンクールを開催しました。
令和7年7月19日(土曜日)水戸市役所にて表彰式を行いました。
入賞された皆さん,おめでとうございます。
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立渡里小学校 | 第6学年 | 入野 篤斗 |
水戸市立第一中学校 | 第1学年 | 菊池 颯真 |
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立緑岡小学校 | 第5学年 | 毛利 七歩 |
水戸市立吉田小学校 | 第5学年 | 厚木 千鶴 |
水戸市立千波小学校 | 第5学年 | 江成 達哉 |
水戸市立寿小学校 | 第6学年 | 両角 円花 |
水戸市立吉田小学校 | 第6学年 | 水田 武瑠 |
水戸市立河和田小学校 | 第6学年 | 淺野 晟吾 |
水戸市立第一中学校 | 第1学年 | 細谷 紗良 |
水戸市立第五中学校 | 第1学年 | 蝦名 真人 |
水戸市立双葉台中学校 | 第1学年 | 吉田 翔 |
水戸市立笠原中学校 | 第1学年 | 綿引 梨乃 |
水戸市立第二中学校 | 第2学年 | 小森 こころ |
水戸市立第四中学校 | 第2学年 | 松塚 大輝 |
水戸立赤塚中学校 | 第2学年 | 渡辺 美結 |
水戸市立千波中学校 | 第2学年 | 黒崎 ひなた ※崎の正式表記は「たつさき」です。 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第3学年 | 園部 柚玲彩 |
茨城大学教育学部附属中学校 | 第3学年 | 平野 沙織 |
茨城中学校 | 第3学年 | 大野 真亜里 |
水戸英宏中学校 | 第3学年 | 片岡 一貴 |
学校名 | 学年 | 氏名(敬称略) |
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水戸市立寿小学校 | 第5学年 | 米山 理帆 |
水戸市立国田義務教育学校 | 第5学年 | 小田倉 礼奈 |
水戸市立双葉台小学校 | 第5学年 | 石崎 健都 ※崎の正式標記は「たつさき」です。 |
水戸市立笠原小学校 | 第5学年 | 海老沢 卓摩 |
水戸市立上大野小学校 | 第6学年 | 福田 凜 |
水戸市立梅が丘小学校 | 第6学年 | 甲斐 希実 |
水戸市立稲荷第二小学校 | 第6学年 | 栗田 ゆかり |
水戸市立第二中学校 | 第1学年 | 柳澤 蒼依 |
水戸市立第四中学校 | 第1学年 | 南 英芽 |
水戸市立国田義務教育学校 | 第8学年 | 公文 樹 |
水戸市立双葉台中学校 | 第2学年 | 木村 綾里 |
水戸市立常澄学校 | 第2学年 | 石川 花奈 |
水戸立第一中学校 | 第3学年 | 永迫 悠仁 |
水戸市立千波中学校 | 第3学年 | 松本 幸之介 |
去年の冬,僕は初めて飛行機に乗った。飛行機の窓から見た景色は息をのむほどきれいだった。雲の間から見える青い海,時おり現れる緑の島々。何度も写真や動画を見返すほど,僕の楽しい思い出だ。でも,最近ある場所で知ったことを思うと,写真を見ながら少し悲しい気持ちになる。
桜山にある茨城県護国神社がどんな神社か知っているだろうか。お花見のために通り過ぎようとしたそこに大きな塔があった。父にたずねると,戦争で命を落とした人のいれいの塔だという。そもそもこの神社がそういう方々をまつるためにできたのだと。僕は塔に手を合わせ,もっと境内を見たいと父に伝えた。
境内には特攻勇士之像をいうものがあった。特攻。たった一回の攻撃のために,たくさんの若い命が亡くなった。どんな事情があっても,その選択をするしかなかった時代を,日本を,とても恐ろしく思う。彼らはどんな気持ちで最後の飛行機に乗ったのだろう。想像するだけで胸が痛む。彼らが見た飛行機からのながめは,僕が見たものとは全くちがったかもしれない。最後に見た景色が少しでも美しかったいいなと願う。
特攻勇士之像のわきに,しな事変から太平洋戦争までの戦死者の数が書かれた碑があった。茨城県だけで約五万八千人が亡くなっていることを知った。調べてみると,戦地だけではなく,市内でも空襲により三百人以上ものぎせいがあった。
昭和二十年八月二日の夜中に始まった空襲は,わずか一時間四十五分の間に水戸市のほとんどを焼きつくしたそうだ。体験談はどれも読み進めるのがつらいほどで,人々の恐怖がどれほどだったのかがよく分かる。僕と同じくらいかもっと小さな子供でも,安全な場所を求めてにげまわり,そこで息をひそめた。それでも助からなかった命があることを忘れてはならない。
僕はもう一度塔の前に立ち,さっきよりも真剣に手を合わせた。二度と戦争という悲しい出来事が起きませんように,一日も早く世界から戦争がなくなりますように,と。
戦後八十年。戦争体験者に直接話をうかがう機会はほとんどないだろう。でも戦争を知るきっかけは,身近なところにもあると思う。記念館や資料館という形でなくても,石碑や塔がそうかもしれない。だから,そこに目を向け,素通りしないで立ち止まってみる。少しでも気になることがあったら調べてみる。僕は戦争を知ることが,平和への第一歩だと思う。
戦争を昔の話,外国の話で片付けてはいけない。知って,学んで,考える。なぜなら,平和な未来は僕たち一人ひとりの行動でしかつくることができないのだから。
「また戦争の話するんだからー。」
何度笑いながらこんなやり取りをしただろう。僕の曽祖母は家族で唯一戦争を経験したが,今年百歳の誕生日を目の前にしてこの世を去った。また一人,戦争のことを教えてくれる人がいなくなった。
今年は戦後八十年。曽祖母は僕の生きる今を平和だと言い,僕にどんな時も自分本位になることなく,「悲しみを理解できる人」になるよう教えてくれた。
昭和二十年八月二日。水戸市も空襲で大きな被害を受けた。曽祖母が弟と防災頭巾をかぶり,なんとか生きていこうと耐えぬいた時間。スルスルと焼いだんが落ちる音は,まるで自分たちを標的にしていたかのような緊迫した時間。どれほど恐ろしかったことか。今の水戸市からは考えられない光景があったこと。当時に思いをはせる曽祖母との時間はあの日の街や人の被害をたどり,戦争のおそろしさを伝えてくれる貴重な時間だった。
「人はどんなに深い傷の痛みも,苦しかった時間も,時の流れとともに忘れてしまう。だけど,このような悲しい過去があったことを忘れちゃだめだよ。戦争を風化させてはいけないよ。」
と曽祖母は言った。八十年とい歳月が流れても,歴史の中の出来事としてとらえるのではなく,たくさんの命がうばわれ,未来を閉ざされた人がいたことを忘れてはいけない。戦争体験を語り継ぐ人が減っていく中,一人ひとりが戦争について学び,平和を考えていくことをやめないことが僕たちに課せられた使命だと思っている。
世界では今も紛争が続いている。争いや対立をなくすためには宗教や文化の違いなど多様性を受け入れ,相手を思いやる気持ちを強く持つことが大切だ。「平和」や「幸せ」について考え,世界中の人々が自分や相手を理解し尊重した行動をとることができれば,悲しい思いをして苦しむ人を減らしていけると思う。生きていることを,生きつないできた命によって今,僕がここにいるということを決して忘れてはいけない。そして,つないでくれた命を大切にし,僕は曽祖母が教えてくれた人の痛みや悲しみを理解することのできる人間になりたいと強く思っている。
戦後八十年,たくさんの時間をかけて僕の幸せな毎日がつくられてきた。戦争がどんなものだったか,その時代を生きた人々がどんな思いで毎日を過ごしていたのか考えることをやめず,変えることのできない戦争という体験を平和な未来への教訓としてつないでいく必要がある。青い空をながめながら,僕の住む水戸市や日本の発展のいしずえを築いてくれた人々に感謝し,これからも僕も平和を引き継いで,誰もが安心して暮らせる平和な日々が続いていくことを願っている。