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水戸市に点在している歴史人物のうち,水戸藩を代表する第2代藩主徳川光圀公(義公)と第9代藩主徳川斉昭公(烈公)の銅像を紹介します。
水戸藩第2代藩主。1661年(寛文元年)に水戸藩主となって以来、殉死の禁止、笠原水道の開設、貧民の救済と産業の振興などの善政を行い、藩内外から名君と仰がれました。 また朝廷を尊び幕府を助けるとともに、巨船快風丸による蝦夷地探検など藩政を越えた事業も手がけました。 特に、中国の「史記」にならって日本の歴史を編さんしようと決意し、全国から優れた学者を招き自ら監修にあたった「大日本史」は、水戸藩ばかりでなく近世日本の文化に大きな影響を与えました。1690年(元禄3年)藩主を譲り西山荘(常陸太田市)に隠居し、73歳で没しました。 義公とおくり名され、中納言の唐名から、「水戸黄門」の名で現在でもテレビドラマなどをとおして親しまれています。
写真1枚目:大工町1丁目(大工町交番の近く)
写真2枚目:三の丸2丁目(黄門神社の近く)
水戸藩第9代藩主。1829年(文政12年)に水戸藩主となり藩政改革に手腕を発揮しました。 藩の財政再建のために、衣食住すべてに対して質素倹約をすすめたり、紙、たばこなどの産業振興を図ったりしました。また、人材育成のための藩校「弘道館」や、領内の民ととも(偕)に楽しむという意味から名付けられた「偕楽園」を創設しました。 藩主を譲った後も、近海に現れた外国船に備え軍備の充実を図るため、大砲製造を目的とした反射炉を建設しました。 その後、将軍の跡継ぎ問題や日米通商条約の調印をめぐって大老井伊直弼と対立。水戸に永ちっ居を命ぜられ、水戸城中において61歳で没しました。おくり名は烈公。第15代将軍徳川慶喜公は斉昭公の七男です。
南町2丁目(カスミ 南町店の近く)