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水戸徳川家

ページID:[[open_page_id]] 更新日:2022年8月1日更新 印刷ページ表示

関ヶ原の戦いの後、徳川家康公は、水戸が東北の外様大名たちの脅威を阻む絶好の地と判断し、十一男頼房公(威公)を25万石で封じたのが水戸徳川家の始まりでした(のち、35万石に増加)。

初代頼房公に始まる水戸藩は、御三家として、政治あるいは文教の面で諸藩を代表する大藩でした。歴代藩主の中でも2代光圀公(義公)と9代斉昭公(烈公)が特によく知られています。光圀公は、中国の「史記」にならった「大日本史」の編さんという大きな功績を残しました。また、中納言の唐名から「水戸黄門」と呼ばれ、現在でもテレビドラマなどをとおして広く親しまれています。斉昭公は、幕末に当時の総合大学ともいうべき藩校「弘道館」を設立し、日本の文化の上に大きな役割を果たしました。その斉昭公の七男が明治維新の渦中に身をおく運命となった15代将軍徳川慶喜公でした。

水戸徳川家家系図

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