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水戸城跡(塁及び濠)

ページID:[[open_page_id]] 更新日:2022年8月1日更新 印刷ページ表示

水戸城跡

名称

水戸城跡(塁及び濠)
(みとじょうあと(るいおよびほり))

所在地

水戸市三の丸

管理者

茨城県・茨城大学・水戸市

年代等

安土桃山時代

指定区分

県指定

指定年月日

昭和42年11月24日

指定地

27,728平方メートル
(水戸一高4,360平方メートル、附属小・二中12,000平方メートル、旧県庁11,368平方メートル)

 水戸城は那珂川と千波湖にはさまれた台地の東端に位置し、鎌倉時代初期に常陸大掾氏の一族馬場資幹が最東端に館を築きました。次いで、15世紀前半に江戸氏が河和田城から進出して水戸城を占拠し、支配下としましたが、16世紀末に太田の佐竹義宜が勢力を強めて江戸氏を滅ぼし、城郭を西に拡大しました。城下町が形成されたのもこの頃です。徳川家康が関が原の戦いに勝つと、佐竹氏は秋田に移封を命ぜられました。慶長14(1609)年、末子頼房が、初代水戸藩主として城郭を拡大し、上町・下町が形成されました。外観に石垣は見られませんが、平成18年の法面修復工事に伴う調査で明らかとなったように、土塁は粘土等で強く突き固めて構築されたものです。なお、一部には小礫の積み上げがみられました。二の丸にあった館と三階櫓は、明治の初めや昭和20年の戦災で焼け、現在は本丸跡・二の丸虎口・三の丸西辺の3ヵ所の土塁と堀が県指定史跡になっています。

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