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水戸の地に人々が住むようになったのは、今からおよそ3万年前の先土器時代と考えられ、その時代の遺跡として十万原遺跡や赤塚遺跡などがあります。縄文時代では馬場尻遺跡や大串貝塚など数か所の遺跡や貝塚があり、弥生時代になると大塚新地遺跡などの集落跡から水稲作が行われていたことがわかります。4世紀末になって大和朝廷の勢力が水戸にも及ぶと、古墳が造られるようになりました。5世紀前葉には大型古墳が造られ、愛宕山古墳(国指定史跡)が今も残されています。645年(大化元年)の大化改新により国・郡・里の地方制度が整えられ、水戸は常陸国那賀郡に属しました。
平安時代末期に、平氏一門の馬場資幹が水戸台地に館を構え、これが水戸城の最初といわれています。15世紀に入ると江戸氏が水戸城を奪いましたが、豊臣秀吉のもとで勢力を伸ばした佐竹氏が1590年(天正18年)に江戸氏をせめ水戸城を奪い北関東随一の大名となりました。しかしその佐竹氏も、関ヶ原の戦いにあたって徳川氏に味方する態度がはっきりしなかったため、徳川家康により1602(慶長7年)年に秋田へ国替えとなりました。
天下を治めた徳川家康は、水戸が東北地方の外様大名からの脅威を阻む絶好の地と判断し、十一男頼房(威公)を25万石で封じました(のち、35万石に増加)。ここに御三家・水戸徳川家が始まりました。
頼房が藩主になると、水戸城の修築とともに城下町の拡張・整備が行われました。上町の城下町を広げるとともに、千波湖東側の低地を埋め立てて新しい町人町をつくり、上町の町人をここへ移して商工業の中心としました。このときに、今日のような町の形態がほぼ整いました。
以降、1871年(明治4年)の廃藩置県まで、頼房の子孫が代々水戸藩主を務めることになりました。歴代藩主の中でも、「大日本史」の編さんにあたった2代光圀(義公)と、藩校「弘道館」を創設した9代斉昭(烈公)は傑出した存在であり、数々の治績を残しました。