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名称 |
常磐公園(偕楽園) |
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所在地 |
水戸市常磐町・見川町 |
管理者 |
茨城県 |
年代等 |
江戸時代 |
指定区分 |
国指定 |
指定年月日 |
大正11年3月8日 |
指定地 |
本園110,478平方メートル・桜山25,916平方メートル |
偕楽園は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、千波湖畔の景勝の地を選定し、天保13(1842)年に開園した庭園です。修業の休息を教育の一部として捉え、庭園にその役割を担わせるという構想により、弘道館は修業の場、偕楽園は修業の休養の場という対の施設として、城下の都市景観を形成しました。開園の趣旨は、斉昭自撰自署の雄大な石碑である偕楽園記碑(天保10年建碑)に記されています。偕楽園の語源は、偕楽園記に記された「衆と偕に楽しむ」に求められ、これは我が国における公園思想のはじまりとして評価されています。
園内には学問の木である梅の木が植栽され、また、梅と学問の故事にちなんで命名された好文亭(昭和33年再建)では人々が詩歌に興じ、学業の疲れを癒しました。
偕楽園記には、自然の万物の陰陽の理に従うことが説かれており、園の空間構成にあっても、竹林・杉森の陰、梅林の陽という陰陽思想が貫かれています。すなわち表門を潜ると、静寂に包まれた孟宗竹林と大杉森があり、いくつかの庭門を経て好文亭に至ります。好文亭は三階建になっており、最上階である楽寿楼に上がるとはじめて視界が開け、眼下に園内の梅林と、園外の千波湖が広がります。偕楽園は、借景を含めて大きく全体的な景観構成を組み立てており、その大胆な空間構成が大きな特色になっています。
偕楽園は明治6(1873)年、常磐公園の名で開放され、大正11年史跡名勝に指定されました。その範囲は偕楽園(本園部)の他、桜川対岸の桜山・丸山を含みます。
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