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9市町村オリジナル御城印の紹介

ページID:[[open_page_id]] 更新日:2024年2月27日更新 印刷ページ表示
御城印9種類

河和田城(水戸市)

河和田城全景

来歴

 1337(建武4)年、鍛冶弾正貞国により築城されたと伝わる中世城館です。のち江戸氏、ついで江戸氏家臣春秋氏の居城となりました。1590(天正18)年に佐竹義宣が江戸氏を水戸から追放し、河和田城も廃城になったと伝わります。
 現在残されている遺構は春秋氏時代に整備されたもので、土塁や堀が良好に保全されています。また、東西約510m、南北約600mの広範囲を主郭とするという、水戸市を代表する中世城館です。

所在地

 水戸市河和田町999外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  •  JR水戸駅北口から

 <バス>
  いずれも茨城交通
  (1)桜川車庫行 桜川車庫バス停下車 徒歩4分(300m)
​  (2)友部駅行  河和田農協前バス停下車 徒歩8分(700m)

  • JR常磐線赤塚駅から

 <バス>
  いずれも茨城交通
  (1)水戸医療センター行 報仏寺バス停下車すぐ
  (2)常陸高田行     報仏寺バス停下車すぐ

 <タクシー>
  約6分(1.8km)

駐車場

 なし

近くの主な観光施設等

 水戸市植物公園(3.3km)

笠間城(笠間市)

笠間城

来歴

 笠間城は、塩谷朝業の子である笠間時朝によって承久元年(1219)に築城が開始されたとされ、以後笠間氏の居城となりました。建武4年(1337)の烟田時幹軍忠状写(烟田文書)に「笠間城」の記述が見られ、笠間城の存在と、笠間氏が南朝方に組みしていた事がわかります。天正18年(1590)、笠間氏は豊臣秀吉の小田原征伐の際に、主家である宇都宮氏の命に背いたことにより没落し、以後宇都宮氏家臣である玉生高宗が城主となりました。慶長3年(1598)、蒲生氏の重臣である蒲生郷成が笠間城主となり、天守曲輪の整備を行いました。関ヶ原の合戦後、徳川氏譜代の松平康重が入城後、藩主が幾度と入れ替わりましたが、延享4年(1747)に牧野氏が封ぜられると、牧野氏の下で明治維新を迎えることになります。浅野氏が藩主の時代、政務を行う下屋敷が整備されましたが、山城部分は廃棄されずに存続しました。井上氏・牧野氏の時代に笠間城の修復が行われました。修復願が幕府に提出されるとともに、修復に関わる絵図が伝来しています。

所在地

 笠間市笠間3616-1外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR水戸線笠間駅から

 <バス>
  茨城交通
  稲荷神社経由芸術の森公園行 日動美術館入口バス停下車 徒歩20分(1.5km)

 <タクシー>
  約13分(乗車8分+徒歩5分)

 <レンタサイクル・シェアサイクル(ドコモバイクシェア)>
  約12分(3.0km)
  笠間駅観光案内所 貸出時間 8時30分~17時00分 1,500円/日(上限)
  ※ レンタサイクルは年末に休業期間あり。
  ※ シェアサイクルは要スマートフォン・クレジットカード。

 

  • JR友部駅北口から

 <バス>
  茨城交通(観光周遊バス) 日動美術館バス停下車のち徒歩18分(1.3km)

 <タクシー>
  約17分(乗車12分+徒歩5分)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 笠間稲荷神社、笠間稲荷美術館、笠間日動美術館、笠間城跡、笠間芸術の森公園、茨城県陶芸美術館、笠間工芸の丘、春風萬里荘

夤賓閣(ひたちなか市)

い賓閣

来歴

 水戸藩第二代藩主徳川光圀公が,日和山と呼ばれる台地に元禄11年(1698年)に建設した水戸藩の別邸です。夤賓閣の名称は中国の書『暁典』の「夤賓日出・」(つつしんで日の出をみちびく)をとり,接待所,迎賓館の意味があります。建物は,建坪が約300坪(1,000平米)で28もの部屋があり,地形を利用した高低二段の構造でした。光圀公や斉昭公など歴代藩主も訪れ,宴席や詩歌の会が催されました。建物は元治甲子の乱(1864年)で破壊されてしまい,その後湊公園として整備されました。

所在地

 ひたちなか市湊中央1丁目1

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR勝田駅から

 <鉄道>
  ひたちなか海浜鉄道湊線
  那珂湊駅下車 徒歩10分(0.8km)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 那珂湊おさかな市場(0.6km)

額田城(那珂市)

額田城

来歴

 建長年間(1249~1256年)佐竹氏4代義重の2男義直が築城し、額田氏を称した時からはじまります。10代義亮の時、佐竹氏と対立し、応永31年(1424年)佐竹氏13代義人に攻められ落城し、額田氏は亡びました。その後、義人の家臣小野崎氏が額田城主となり、以降7代昭通まで続きましたが、天正19年(1591年)佐竹氏20代義宣に、昭通に異心ありとし、攻められ落城、昭通は陸奥 伊達政宗の元に亡命し、以降廃城となりました。
 額田城跡は、額田台地の南東部縁に所在し、標高27m、本丸跡は7~8mの深壕に囲まれた山林で、面積は約16,000平方メートルあります。さらに二の丸と土塁まで含めた総面積は約77,000平方メートルあり、中世の城跡として現存していることは、県下でもめずらしいものです。

所在地

 那珂市額田南郷103外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR水郡線上菅谷駅から

 <鉄道>
  額田駅下車 徒歩25分(2.0km)

 <バス>
  いずれも茨城交通 額田十文字バス停下車 徒歩6分(0.5km)
  (1)下井戸・一高前経由 常陸太田特別支援学校行
  (2)内堀町経由 増井車庫行

  • JR水郡線額田駅から

 <タクシー>
  約5分(2.0km)

 <徒歩>
  約25分(2.0km)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 阿弥陀寺(0.6km)、引接寺(0.6km)、鱗勝院(1.1km)

小河城(小美玉市)

小河城

来歴

 12世紀初頭、南郡惣地頭職下河辺政義の子、小河次郎政平により築城されたと伝わる中世城館です。のち園部氏が入城しますが、天正18年(1590)に佐竹氏の急襲をうけて落城したとされています。のち文禄3年(1594)、佐竹氏配下の茂木治良の居城となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替え後には、出羽国角館から戸沢政盛が入城しました。11年(1606)に戸沢氏が常陸国松岡に本拠を移ったのち、小河は水戸藩領となり、元和8年(1622)に廃城になったと伝わります。
 小河城の規模は南北250m、東西300mの範囲に及ぶと想定されますが、廃城後は水戸藩御殿、運送方役所、稽医館、小川小学校などに利用されたため、城郭施設の大部分は後世の改変により残っていません。わずかに本丸の南側などに、城館の地形の面影を残すのみとなります。

所在地

 小美玉市小川字古城内1647外(旧小川小学校外)

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR常磐線石岡駅から

 <バス>
  関鉄グリーンバス
  (1)茨城空港行 小川中央バス停下車 徒歩6分(450m)
  (2)新鉾田駅行 小川駅バス停下車のち 茨城空港行 小川中央バス停下車 徒歩6分(450m)

  • 小川駅バス停から

 <バス>
  小美玉市コミュニティバス「おみたん号」空港ルート 小川中央バス停下車 徒歩6分(450m)

 <タクシー>
  約4分(1.3km)

駐車場

 なし

近くの主な観光施設等

 小美玉市小川図書館・資料館(水戸小川稽医館の碑 拓本展示、50m)、素鵞神社(小川城跡に鎮座、50m)

小幡城(茨城町)

小幡城

来歴

 小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(1420年頃)に築いたという説と、小田知重の三男光重が鎌倉時代(1220年頃)に築いたという2説あります。
 戦国時代の文明年間(1481年頃)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入りますが、天正18年(1590年)12月、豊臣秀吉の権力を背景にした佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ、この時小幡城も落城したと伝えられています。
 現在、城跡は堀や土塁、土門、折邪、二重堀など数多くの遺構が当時のまま残っており、昭和45年町指定史跡になりました。

所在地

 東茨城郡茨城町小幡1920外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR常磐線石岡駅から

 <バス>
  関東グリーンバス
  水戸駅行 新小幡バス停下車 徒歩25分(2.0km)

 <タクシー>
  約32分(16km)

  • JR水戸駅から

 <バス>
  関東鉄道
  石岡駅行 新小幡バス停下車 徒歩25分(2.0km)

 <タクシー>
  約30分(14km)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 小幡北山埴輪製作遺跡公園(2.8km)、ポケットファームどきどき(3.4km)

磯浜海防陣屋跡(大洗町)

磯浜海防陣屋跡

来歴

 江戸時代後期から幕末期にかけての時期は,異国船が茨城県の沿岸に頻繁に接近し,中には上陸して乱暴を働く事件が発生しました。そのため,異船の出没に対する危機感が強まっていました。水戸藩では,攘夷思想を抱いた水戸藩9代藩主の徳川斉昭が藩主に就任すると,北茨城市~大洗町間の藩内沿海の地に,海防陣屋や台場などの複数の海防施設を築造し,海防に対する積極的な政策をとるようになりました。
 水戸藩領地の最南端に位置し,水戸城にも通じる磯浜村や大貫村を防御するため,鹿島灘沿岸を一望にでき異船を監視する好適の地に,磯浜海防陣屋は建設されました。国史跡の磯浜古墳群中,日下ヶ塚古墳と重複する台地南縁一帯が該当し,古墳とは異なる遺構が残存しています。陣屋には藩士が詰め,沿岸に接近する異国船や異人を監視し,いざという時に砲撃できる大筒などの武備を備えていました。
 国立歴史民俗博物館所蔵の『水戸天狗党絵巻』には「磯之浜御台場」と登場し,現在でも通称として残る「おだいば山」は,海防陣屋の名残とみられています。

所在地

 東茨城郡大洗町磯浜町2865-8外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線大洗駅から

 <バス>
  大洗町循環バス「海遊号」
  (1)新町バス停下車 徒歩約6分(0.5km)
  (2)永町バス停下車 徒歩約3分(0.3km)

 <タクシー>
  約8分(1.5km)
  ※ 車での見学はできませんので、ご注意ください。

 <レンタサイクル>
  約4分(0.9km)
  うみまちテラス 貸出時間(12月29日~31日を除く、午前9時00分~午後5時30分)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 磯浜海防陣屋跡・磯浜古墳群(現地)、大洗マリンタワー(1.1km)、幕末と明治の博物館(1.5km)、大洗磯前神社・神磯鳥居(2.0km)、アクアワールド茨城県大洗水族館(3.5km)、夕日の郷松川(7.0km)

御前山城(城里町)

御前山城

来歴

 御前山城は承久年間(1219~21頃)関白 藤原道兼の子孫の藤原時房がはじめて築いたといわれています。
 その後、応永年間(1394~1427)に、今宮大納言永議がこの城の城主となっていたことがあり、御前様が居住したことから御前山とよばれるようになったのだろうともいわれています。
 御前山には伝説が多く、孝謙天皇の行在所の跡とか、南北朝争乱のとき楠木正家の軍がここにたてこもったとの言い伝えもあります。また、徳川光圀が太田の西山に隠棲するときに、御前山も候補地となり、数回の調査をし、光圀自身も調査したが、水の便が悪く、結局太田に決定したともいわれています。

所在地

 東茨城郡城里町御前山(御前山県立自然公園内)

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  •  JR水戸駅北口から

 <バス>
  茨城交通
  野口車庫行 御前山バス停下車 徒歩30分
  ※ 山林山頂にある跡地につき、遊歩道はございますが、傾斜等がきつい箇所等もあり、軽装等での登山がお控えください。

駐車場

 なし

近くの主な観光施設等

 道の駅かつら(0.2km)

石神城(東海村)

石神城

来歴

 石神城は,佐竹氏関連の中世城郭です。築城時期は諸説ありますが,1432(永享4)年足利持氏感状に「常州石上城合戦」とあるため,この時期には築かれていたと思われます。
 城主は,佐竹氏家臣の石神小野崎氏です。1546(天文15)年頃,所領の境界を巡って争いが起きていた額田小野崎氏との合戦に敗北し,石神小野崎氏は城から退去しました。その後,佐竹氏への戦功により領地の維持と帰城が認められますが,1602(慶長7)年,佐竹義宣の秋田移封に従ってこの地を去り,石神城は廃城になりました。
 遺構の保存状態は非常によく,深い堀や土塁など,当時の城の様子がよく残っています。平成29年12月には,茨城県史跡に指定されると共に,「石神城址公園」として整備され住民の憩いの場となっています。

所在地

 那珂郡東海村石神内宿1258外

施設等の開館時間

 特になし。

公共交通でのアクセス

  • JR常磐線東海駅西口から

 <バス>
  茨城交通
  (1)水戸駅行  内宿入口バス停下車 徒歩25分(2.0km)
  (2)茨城大学行 内宿入口バス停下車 徒歩25分(2.0km)

 <タクシー>
  約10分(4.5km)

駐車場

 あり

近くの主な観光施設等

 東海村歴史と未来の交流館(3.5km)