水戸のお宝再発見(6)長久保赤水

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最終更新日:2011年10月3日 ページID:008338

経緯線が入った日本地図を初めて出版
長久保赤水

 長久保赤水(ながくぼせきすい)享保2年~享和元年(1717年~1801年)は、水戸藩領多賀郡赤浜村(現・高萩市)に農民の子として生まれました。幼いころに弟、母、父を亡くし孤児となりましたが、継母の愛育によって学問好きの素直な少年に育ちました。15歳のころに上手綱村の医師鈴木玄淳(すずきげんじゅん)のもとで学び始め、その後、水戸藩の学者名越南渓(なごやなんけい)に師事して研鑽(けんさん)を積みました。51歳になった赤水は、その学問によって水戸藩の士分に取り立てられ、そればかりか61歳の時に、第6代藩主徳川治保(とくがわはるもり)に漢文などの講釈をする「侍講(じこう)」に抜擢されています。
 赤水が日本地図の編集を始めたのは、宝暦元年(1751年)35歳の頃からでした。当時、一般の人々が目にする日本地図は、あまり正確ではありませんでした。そこで赤水は、諸国の絵図を統合したり、天文学者が発表した緯線の研究などをして、より正確な日本地図を作ろうとしました。赤水は情報収集に貪欲でした。例えば、自宅の前を通る旅人に他国の地形を尋ねたり、東北や長崎への旅の機会を得ては、道中自分の目で地形を確認したりもしています。地図作成にあたる赤水は、まさに「飛耳長目(ひじちょうもく)」の人だったのです。

 安永4年(1775年)、20年以上の歳月をかけた日本地図の原図がようやく完成。修正を加え、安永8年(1779年)、ついに「改正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)」として出版されました。6色刷の美しい地図です。国土の輪郭はかなり正確で、地図には縦・横に線が入りました。横線は緯線、縦の線は京都を中心に引かれていて度数が記入されていないことから、経線ではなく方格線であると言われています。こうした線が入って距離方角が正しく読みとれるようになった赤水の地図は、その後8版を数えるベストセラーとなって多くの人々の手に渡りました。

 赤水の日本地図の初版から42年後、伊能忠敬による測量に基づいた精緻(せいち)な「大日本沿海輿地全図」が完成しました。しかし、幕府の海防政策のために作られた伊能図が一般に広まることはありませんでした。江戸時代後期から明治初めにかけて、人々に一番利用され、親しまれていたのは、赤水の日本地図だったのです。

市立博物館長 玉川里子
 

(この記事は、「広報みと」平成23年10月1日号に掲載したものです。)
 

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