水戸のお宝再発見(3)武石浩披

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最終更新日:2011年7月1日 ページID:008335

日本の空を飛んだ民間パイロット第一号
武石浩玻

 武石浩玻(こうは)は、日本の空を飛んだ初めての民間パイロットです。明治17(1884)年、那珂郡勝田村(現ひたちなか市)の生まれ。水戸中学(現水戸一高)在学中は、俳句や短歌、詩などを文芸雑誌へ投稿する文学青年でした。しかし、卒業後に浩玻が選んだ道は船乗りでした。未知の世界への憧れ、自分を大きく飛翔させる挑戦ともとれるその選択は、やがて浩玻をアメリカに向かわせます。浩玻が渡米を果たしたのは明治36(1903)年。奇しくも、アメリカでライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功した年でした。

 明治41(1908)年、ロサンゼルス郊外で催された飛行大会で、フランス人飛行家ルイ・ポーランの姿に感動した浩玻は、急速に飛行機に熱中していきました。明治45(1912)年2月には、カーチス飛行学校に入学し、わずか3か月で卒業。そして明治46(1913)年、浩玻のための飛行機も完成しました。

 その名が一躍注目されるようになった浩玻に、日本での「都市連絡飛行」の話が持ちかけられました。大正2(1913)年、凱旋(がいせん)帰国した浩玻は、5月3日、兵庫県の鳴尾競馬場で旋回飛行を披露。翌日、鳴尾から大阪、京都へと連絡し、往復するという都市連絡飛行にチャレンジします。まずは大阪に無事着陸。「雷の如く起る歓呼の声に十数万の観衆と握手するやうな気がしました」という浩玻の言葉を新聞が伝えています。そして、京都深草の空に悠然と姿を現わした飛行機。誰もが成功を確信したその目前で、機体はバランスを崩し墜落大破。浩玻は投げ出され、28年の波乱の人生を閉じました。

 飛行機が「何かを運ぶためでもなく、スピードを競うためでもなく、ただ飛ぶために飛んでいた」時代、飛行家は偉大な冒険家でもあったのです。その年の暮れ、飛行家の先駆者として浩玻を讃える像が母校水戸中学の西端に建てられました。飛行服姿の浩玻像のまなざしは、広い空を見渡しているかのようでした。

市立博物館長 玉川里子

(この記事は、「広報みと」平成23年7月1日号に掲載したものです。)

 

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