水戸のお宝再発見(1)黒澤止幾

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最終更新日:2011年5月2日 ページID:008333

女性教師 第一号
黒澤止幾

 黒沢止幾(くろさわとき)は、文化3(1806)年に茨城郡高野(こうや)村(城里町錫高野(すずこうや))に生まれました。家は私塾(寺子屋)も開いていた修験道場(しゅげんどうじょう)の宝寿院。幼い頃に父と離別し、祖父や養父から漢学、国学などを学んで育ちました。止幾は26歳で夫と死別すると実家に戻り、その後20年間、櫛(くし)や簪(かんざし)の行商で生計を立てました。行商は関東一円に及び、草津(群馬県)や七会村塩子(しおご)(城里町)では、豊かな知識と才能を見込まれ地元有志の子弟たちの教育にもあたりました。また各地の文人と交流し、俳諧(はいかい)、漢詩、和歌などを学んで文芸の世界にも親しんでいます。

 安政元(1854)年、止幾は養父の私塾を受け継ぎ、多くの門弟に囲まれて穏やかな日々を過ごしました。しかし、安政5(1858)年、事件が起きました。天皇の許可を得ずに日米修好通商条約を調印した大老井伊直弼を詰問するため、押懸(おしか)け登城に及んだ前水戸藩主徳川斉昭らが謹慎させられ、世に言う「安政の大獄」が始まったのです。これに義憤を感じた止幾は、斉昭の罪を晴らそうと単身京都に向かい、「国と主君を思う一念」を「長歌(ちょうか)」に認(したた)めて朝廷に献上しようとしました。たった1人、自らの信念による行動でした。当時の女性としては驚くべきことで、止幾が「幕末勤王(きんのう)の女傑」と呼ばれる所以(ゆえん)です。止幾は捕らえられ、処罰を受けて常陸国(ひたちのくに)への立入りを禁じられました。しかし止幾は、密かに錫高野に戻って私塾を再開。彼女の高い教養と信念を貫く姿は門弟たちの尊敬を集めました。

 明治5(1872)年に学制が発布されると、止幾の私塾は錫高野小学校の教場となりました。同時に止幾は小学校教師に任命され、これが日本における女性教師の最初とされています。すでに当時の女性の領域を軽々と超えていた止幾。その人生の道筋に、初めて女性に門戸を開いた教師という職業が舞い降りたのは必然の理(ことわり)にも思えます。

市立博物館館長 玉川里子

(この記事は、「広報みと」平成23年5月1日号に掲載したものです。)
 

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