みとの水脈(17)森道伯(漢方医)

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最終更新日:2012年1月16日 ページID:008305

吾が道一を以って之を貫く 森道伯(もりどうはく)
参考図書1:『森道伯先生生誕百年祭記念文集』、参考図書2:『漢方一貫堂医学』

明治維新後の西洋医学の本格的導入により、日本の漢方医学は勢いを失っていきます。西洋医学にあらずんば医学にあらずという風潮の中で、漢方医学の復興に大きな役割を果たしたのが、森道伯の創始した一貫堂医学でした。

森道伯は、慶応3年(1868)11月7日に水戸に生れました。幼名を白石捨彦、通称は新吉。父白石又兵衛は、幕末の水戸藩の抗争に巻き込まれ、奥州へ逃げ延びたといいます。当時2歳の道伯自身も、家僕(かぼく)に連れられて笠間城下に逃げ、陶器商森喜兵衛の養子となり、難を逃れました。

実父又兵衛は、明治5年の大赦によって水戸に帰りましたが、養父喜兵衛は明治12年に病没したため、道伯は東京下谷西町にいた実兄白石又二郎を頼って養母いしとともに上京、兄に鼈甲(べっこう)細工を習いました。一方、道伯が15歳の時、実父又兵衛の知人である産科の名医、遊佐大蓁の下で、漢方医学を学ぶ機会を得ました。生活のため3年後には再び鼈甲細工に携わりましたが、それでも向学の志やみがたく、漢方医清水良斉に師事。しかし、師良斉が突如旅に出て行方知れずとなってしまい、道伯がその後を継ぎました。

道伯の掲げた一貫堂療院の看板は、師大蓁が称していた「遊佐一貫堂」に基づくもので、論語の一節によります。それは、吾(われ)一人となっても漢方復興の道にかけるという、道伯の意気込みの表われでした。
明治35年には、自ら中心となって日本仏教同志会を結成し、『鐘の響き』という機関誌を発行。これに施療券を付けて、貧しい人たちの医療に尽くしました。また、大正7年から8年にかけてのスペインかぜ流行の時には、道伯はスペインかぜの3つの病型に応じた処方を施し、多くの命を救ったのでした。

道伯は死を迎える前、自ら余命3年で命尽きると予言。その言葉どおり、昭和6年1月19日、64歳でこの世を去ったのでした。

(見和図書館 司書 坂部豪)
参考図書:『森道伯先生生誕百年祭記念文集』仁性会、『漢方一貫堂医学』医道の日本社 矢数格


(補足)この記事は「広報みと」平成24年1月15日号に掲載したものです。

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