みとの水脈(15)大関五郎(詩人)

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最終更新日:2011年9月15日 ページID:008303

父母恋し 純真無垢の詩人 大関五郎(おおぜきごろう)
参考図書:『大関五郎民謡遺稿集』

大関五郎は、明治24年1月、水戸市新鳥見町(現在の泉町2丁目)に生れましたが、誕生前に父徳が亡くなり、3歳で母はなと離別、祖父母に育てられました。祖父大関俊徳は水戸藩士で、明治22年水戸市議会議員を務め、茨城県の公報的性格を持つ『茨城新聞』(後に『茨城日報』)の創刊に関わるなど、幅広く活躍しています。

大関は、早稲田実業から東京主計学校を経て、水戸に戻り、祖父の勧めに従い、銀行に入ります。しかし仕事になじめず、職を辞し、以後文学に専心します。横瀬(よこせ)夜雨(やう)に師事し、夜雨が選者をつとめる、「いはらき」新聞の文芸欄「木星」に投稿していました。ちょうど、大正7年好文亭で「木星」の集いが開かれました。夜雨や大関とともに、宣教師として水戸に赴任したばかりの山村暮鳥や、野口雨情も参加していました。これをきっかけに大関は暮鳥と親しくなり、暮鳥を中心に黎明会(れいめいかい)を結成し、機関誌『苦悩者』を創刊したのでした。夜ともなれば、礼拝帰りの暮鳥や、東照宮近くに下宿していた雨情が訪れる大関邸は、文学の革新を目指す水戸の梁山泊(りょうざんぱく)と化していたといっても言い過ぎではないでしょう。

大正8年、25歳で、大関は歌集『寂しく生きて』を出版し、歌人としての名乗りをあげます。その後、暮鳥の影響を受けて、歌人ではなく、詩人としての評価を高めていきます。特に、水戸の屋敷を処分し東京へ移ってからの活躍はめざましいものがありました。詩情あふれる芸術性豊かな新民謡の普及を目指して、北原白秋、野口雨情、西条八十などの協力を得て、雑誌『新日本民謡』の発行に取組むなど、大きな成果をあげました。しかし、それは私財をすべてなげうった壮絶なものでした。しかも戦争一色に染まってゆく時代の中では、雑誌発行も諦めざるを得なくなります。終戦後間もなく、宮城県松山町に居を移した大関は貧困の中で、わずか54歳でこの世を去り、死後、故郷水戸の常磐共有墓地に埋葬されました。

(見和図書館 司書 坂部豪)

参考図書:『大関五郎民謡遺稿集』

(補足)この記事は、「広報みと」平成23年9月15日号に掲載したものです。

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