みとの水脈(14)荷見安(全国農協中央会長)

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最終更新日:2011年7月15日 ページID:008302

米の神様 荷見安(はすみやすし)

参考図書:『米と人生』荷見安は明治24年4月、緑岡村千波本郷の家で五人兄弟姉妹の次男に生まれました。本籍は水戸市三ノ町(現在の城東2丁目)。先祖の荷見家三代目守荘(もりそう)は水府流下市水術の祖であり、六代目守身(もりみ)(安の祖父)は水府流剣術の指南役を務め、父守敬(もりよし)は緑岡小学校の初代校長を務めています。

荷見は東京帝国大学から、大正5年に内務省に入り、経世済民の思いを胸に、2年後農商務省に転じます。ここから、農政一筋の人生が始まりました。初めは、耕地整理や米穀法の立案などに関わります。大正13年には農務課長、続いて、産業組合課長や米穀課長を経て、米穀部長に就任。特に投機的な取引による米価の変動を止め、農村の不況を救うために、政府による米の買入れ・売却を行い、担当課長として米相場の動きをぴったり予測できるほどになりました。その後、米穀局長となり、戦時色の濃くなった昭和13年馬政局長に転任、14年には農林次官となり、米穀取引所の廃止を実現させます。一方で、陸軍からの配給統制導入の強硬な要求に対して、農林省として反対意見を述べるなど、時流に迎合しない水戸っぽらしい硬骨漢ぶりを発揮しました。そして、昭和15年8月、農林次官を辞し、産業組合中央金庫(後の農林中央金庫)理事長に就任。ときに49歳でした。

戦後昭和21年には、55歳にして農林中央金庫理事長の職も辞します。しかし、時代は荷見を必要としていました。昭和24年6月、荷見は日本銀行政策委員会の初代委員に任命されます。また、昭和29年当時、吉田首相のもと、食糧管理制度の改正が閣議決定されましたが、これを説得して撤回させるなど、一貫して米穀制度の維持発展に取組みました。その後は全国指導農協連会長、全国農業協同組合中央会長などを歴任するだけでなく、国際協同組合運動に関わるなど、アジアの「農家の経済を発展させ、生活を向上させること」に、力を尽くしたのでした。

(見和図書館 司書 坂部豪)
参考図書:『米と人生』わせだ書房
(補足)この記事は、「広報みと」平成23年7月15日号に掲載したものです。

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