みとの水脈(9) 大山義年(化学者)

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最終更新日:2010年1月1日 ページID:005790

日本の化学工学のパイオニア 大山義年

参考図書:『科学者点描』

大山義年は明治36年8月2日、水戸市に生まれました。父大山鷹之介は、司馬遼太郎著『坂の上の雲』の主人公の一人でもある秋山真之と、海軍兵学校の同期。日清、日露戦争に出征し、海軍大佐を務めた後、少将で退役しました。

義年は麻布中学校、水戸高等学校を経て、父鷹之介の影響で東京帝国大学工学部造兵学科に入学。化学機械のコースを修了しました。卒業後は、大学の恩師である大河内正敏の勧めで理化学研究所に入りました。

理化学研究所は寺田寅彦、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎など、優秀な物理学者を輩出したことで有名で、応用物理や工学系統の研究も盛んに行っていました。また、大河内正敏所長の発案で、研究所の発明を製品化する理化学興業などの企業集団を創設して、研究資金を賄っていました。

義年は1年間の実習を経て、大河内研究室に3年勤務した後、籍はおいたまま、昭和6年に台北帝国大学に赴任して粉体工学の研究を始め、第一人者となります。粉体工学とは、多数の固体の粒子の集合体、たとえば砂糖や火薬、原子力燃料などの物理的特性、操作方法などを扱う学問です。

昭和15年に東京工業大学助教授(化学工学科)に就任。昭和37年には東京工業大学学長になっています。戦後の昭和20年には、理化学研究所主任研究員として自らの研究室を主宰し、戦後の混乱期の中で、理化学研究所の再建という難題に挑みます。特に、ペニシリン製造の工業化や酸素の工業化、そして、原子力燃料ウランの濃縮の実用化に深くかかわりました。

しかし、義年の挑戦は終わりませんでした。昭和49年3月、筑波研究学園都市に設置が決まった国立公害研究所の初代所長に就任。部制により研究所の体制を整えるという大役を果たし、昭和52年7月16日、在任のまま亡くなりました。その一生は技術立国日本の化学工学の歩みそのものでした。

(中央図書館司書 坂部豪)

参考図書:『科学者点描』岡部昭彦著 みすず書房

(補足)この記事は、「広報みと」平成22年1月1日号に掲載したものです。

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