みとの水脈(2) 眞木小太郎(舞台美術家)

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最終更新日:2009年6月1日 ページID:005781

息子を愛し、越路吹雪に愛された男 眞木小太郎

参考図書:『聞書き越路吹雪 その愛と歌と死』

戦前から戦後の日本のショービジネスの世界で舞台美術家として活躍し、日本舞台テレビ美術家協会会長も務めた眞木小太郎は水戸出身です。その縁で、息子のマイク眞木(眞木壮一郎)が水戸大使を務めています。

眞木小太郎は明治42年6月4日に、水戸に生まれました。水戸中学(現在の水戸一高)では、創部されたばかりの蹴球部(サッカー部)に所属する一方で、旧制水戸高等学校生の土方定一(後に美術評論家)から、寮祭の舞台で、クレオパトラがエジプトの宮殿の前に立っている場面を作る手伝いを頼まれます。小太郎は、ボール紙やハトロン紙で円柱や階段を作り、針金の芯にパラフィンでクレオパトラの立像をこしらえたといいます。当時から舞台美術の世界に関わりがあったというべきでしょう。

さて、東京美術学校油絵科を卒業した小太郎は、昭和10年に東宝に入社しました。ちょうど、東宝は日本劇場を傘下において日劇レビューを始めたところでした。小太郎は春、夏、秋の三大おどりなど幅広く舞台美術を担当しましたが、戦後はフリーとなり、帝劇のミュージカルに関わることになります。その手始めが越路吹雪主演のミュージカル「モルガンお雪」の衣装デザインでした。

やがて越路吹雪の相談相手として、小太郎はなくてはならない人になったようです。越路吹雪から結婚を申込まれたこともありました。しかし、小太郎は結核で妻を亡くし、息子の壮一郎を男手ひとつで育てていました。マイク眞木はその著『親父塾』のなかで、父・小太郎を「父は僕のスーパーマンだった」と書いています。結局、越路吹雪は内藤法美と結婚。しかし、二人の友情は変わりませんでした。昭和55年12月、越路吹雪の告別式を演出したのは小太郎だったのです。

小太郎は昭和59年7月28日、75歳で死去しました。翌8月、日生劇場で公開された「マイ・フェア・レディ」が最後の仕事となりました。

(中央図書館司書 坂部豪)

参考図書:『聞書き越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著 朝日新聞社

(補足)この記事は、「広報みと」平成21年6月1日号に掲載したものです。

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