みとの水脈(1) 北川波津(東京育成園創立者)

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最終更新日:2009年5月1日 ページID:005780

三陸津波の孤児たちを育てた 北川波津

参考図書:『ニコライ堂の女性たち』

明治29年6月15日に発生した東北の三陸津波による死者は2万7千人余を数えました。この時親をなくした子どもたちをはじめとして、約350人の孤児たちを育てたのが、水戸出身の北川波津でした。

北川波津は安政5年1月9日、水戸の下市曲尺手町(現在の本町3丁目)に、父白駒と母はなの三男四女の末子として生まれました。白駒はもとは北川新左衛門輝虎と名乗る岡山藩士で、お家騒動にかかわり藩を追われ、水戸に移り住んだといいます。波津は子どものころ、当時の水戸の文武奨励の気風から、兄や姉たちと手習いに通うなど、さまざまな教育を受けています。

波津が東京での20年近い結婚生活の後、水戸に戻ったのは明治28年、38歳の時でした。その後、信仰していたキリスト正教会の機関紙で、三陸津波の孤児たちを育てている孤児教育院の窮状を知ると、明治30年再び上京し、運営に参加しました。ところが、孤児教育院の創立者が運営を放棄したことから、院の運営のすべてが波津に委ねられます。

明治32年5月、「孤児教育院」を「東京孤児院」(後に「東京育成園」)と改称し、波津自身が中心となりましたが、その運営は借金もあり苦難をきわめました。波津が子どものころに覚えた機織りの腕をいかして運営資金を捻出する一方で、東京孤児院支援の賛助会員を一般に広げ、また、故郷水戸の親族からの援助もあり(水戸の金工・初代北川北仙は兄)、なんとか運営が安定していったのでした。

こうした活動が認められ、波津は昭和3年に藍綬褒章を受章しました。生涯、弱い者を助けるために全力を尽くした彼女は、昭和13年3月3日、81歳でこの世を去りました。

東京育成園は、今も世田谷の地で波津の遺志を継いでいます。そこには多くの子どもたちの母であった波津の奥深い微笑をたたえた肖像画が掲げられていて、あたたかく子どもたちを見守っています。

(中央図書館司書 坂部豪)

参考図書:『ニコライ堂の女性たち』中村健之介・中村悦子著 教文館

(補足)この記事は、「広報みと」平成21年5月1日号に掲載したものです。
 

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