市民の証言2

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最終更新日:2013年2月1日 ページID:002691

「市役所の罹災と仮事務所の開設」

八月二日未明午前零時半すぎ、八王子市の空襲が終わるか終わらないうちに、別動のB29一六〇機といわれる来襲をうけ、水戸は阿鼻叫喚の巷と化した。
その晩には、渡辺市長は厚生病院から寝台をとり寄せ、市長室に持ちこんで陣頭指揮をとり、市庁舎と運命を共にするとの覚悟であった。
突如照明弾が市中を照らし出すと、鉄砲町(現、五軒町)秋元病院付近に赤々と火の手が上がった。爆弾ではなく焼夷弾の投下である。これはと思ううちに、二発目は市庁舎警防本部階段付近に落下し、炎上しはじめた。二階の警防職員は逃げようとしたが階段はもう火の海、窓から下の自転車置場の屋根に飛びおり、さらに地上へと逃がれた。幸い一人の怪我もなかった。庁舎は紅蓮の炎につつまれて消しとめるすべもない。市長以下庁舎側の防空壕に退避したが、四囲の燃える炎で我慢ができない、窒息しそうだ。ここを飛び出して弘道館公園を目指して駆け出した。
市庁舎が無念にも灰じんに帰してしまったので、市政の拠点は全く失われてしまった。夜が明ければ罹災者の朝食や死傷者の処置もしなければならない。それには先ず仮事務所の設置が急務であった。「県庁の片隅を一時借りてはどうでしょう」と市長に進言すると「そうだ」とうなずいた市長はさっそく弘道館裏の避難先から駆けるように県庁に向かう。私もあとに従った。裏玄関から入って知事室のドアを叩くと、折よく橋本知事は在室され、「そうだ、県会議場はどうだろう。焼けた水戸市の身になって見れば何でもないことだ」と即決して下さった。一同はほっとし、知事の即断に感謝した。
こうしてその日のうちに市役所仮事務所を県会議場に開設することができた。しかし、紙もなければ筆もなし、文字どおりゼロからの出発、知事官房で白紙に「水戸市役所仮事務所」と書いて入口に貼り出した。
さて、こうして間もなく夜が明けはなたれて午前八時ごろになると、かねて有事の際にはと近村に依頼してあった炊き出しも順調に行われ、また無事だった工兵隊からの大量炊き出しもあって、混迷が予想されたその朝の市民を、不十分ながらも飢えと混乱から救うことができた。また、水戸市はすぐ隣接して農村地帯が取り巻いていて、市民の親戚知己も多かったことも幸いして、個人への食糧が多かったことは大きな力であった。また、万一の用意にと、石岡あたりまで手をのばして用意しておいた棺も続々と届けられて、犠牲者の遺骸も日を置かずてい重に処理することができたのは幸いであった。

「不発弾で死んだ妹」

当時私は東部第三七部隊第二中隊第三班に所属して軍務に服していた。八月一日夜半突如空襲警報発令、間もなくあの異様な爆音を響かせながらB29が襲来。閃光弾だろうか、一瞬空が明るくなったと思った途端、馬口労町(現、末広町)方面に火のかたまりが次々と落下、みるみるうちに火の手があがった。鷹匠町(現、梅香)の幼い弟妹たちはどうしているだろうか。軍隊内にあっては個人行動は絶対許されない。切歯扼腕しながらただいらいらするばかり。
二日午前六時出動命令が出る。班にわかれ市内被害状況調査に出発した。途中、班長に自分の家がこの近くにあるので家族の安否を知りたいと申し出、家の前まで来ると、見渡す限りの焼野原にわが家は何と焼け残っているではないか。夢ではないかと眠い目をこすりながら、弟妹の元気な姿と再会。近所の皆さんにお願いして戻る。こうして夕刻まで被害状況を調べ、へとへとになって午後八時過ぎ帰隊した。
帰隊早々に中隊長から妹が死亡したとのしらせがあったので二日間の休暇を与えるとの話。きょう、さっき元気な姿にあったばかり、信じられない思いであった。翌朝帰宅すると、二日夕方不発弾を拾って来た子供が、危ないから捨てなさいとの騒ぎを見に行こうとして家から飛び出したところ、折悪しくこれが下水溝に投げられて爆発、破片が妹の顔面に突きささって、出血多量で死亡したとのこと、行年十四歳であった。痛恨涙をのみながら父の実家常澄村大場の墓地に埋葬を済ませて帰隊した。
正に悪夢のような忘れ得ない思い出である。

「焼夷弾で蒸発したトイレ」

そのころすでに水戸市民は殆んど田舎の知人や親戚に避難して、家に残っている者は何人もいなかったようである。私の住んでいた上金町でも、ほとんど無人でゴーストタウンのようになり、私達のように新参外来人で、避難するにも知人も何もない者か、その家の主人か屈強の若者だけが独りで留守番をするという有様であった。
それで、予告通りに八月一日の夜警報が出たので、一家中避難の準備をして、できるだけ着込んで待機していたが、何事もなく静かになったので、服装を解き寝ようとした。その時、ラジオが鹿島灘に数十機の敵機が現れたと報じたと同時に、何の予告もなしにバラバラと焼夷弾が落下しはじめた。何でも初めに水戸市の北側と南側を爆撃して炎上させ、逃げ路をふさぎ、中央部は後から襲撃したということであるが、上金町には真っ先に焼夷弾が落下したようである。
見る見るうちに蚊帳や障子がメラメラ燃え始めた。裏の家からも火を吹き出したので、その火の下をかいくぐるようにして、妻と二人の娘を伴い、かねて避難先と定めていた那珂川べりを目指して逃げた。避難する途中でも、頭上から筒やバンドのようなものが、ガラガラ雨のように降ってきた。それで林の中の崖を駆け降りて、そのふもとの低地に伏せて息を殺していた。那珂川べりまで落ち延びた人は、かえって襲撃されたという事である。 ようやく夜が明け始めて、静かになったので帰ってみると、家は無残にも焼け落ちていた。便所に焼夷弾の筒が突き刺さっていて内容物は完全に蒸発して、ぬぐったようにきれいになっていたのにはびっくりした。書棚のあったと思われる場所には、うず高い粘土の塊があったので暗然とした。そして東隣の家との堀際には焼夷弾が一本あり、西隣の家では寝室が焼夷弾の直撃を受けたと見えて、焼死体が見つかった。無残な犠牲者であった。

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