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千波湖の歴史

千波湖のなりたち

 千波湖はもともと、那珂川の氾濫などにより、上市台地と千波緑岡台地の間の低湿地帯に生じた浅い沼であったと考えられます。
 それが、江戸時代初期における水戸藩の城下町建設のなかで、水戸城の堀として位置づけられ、囲い込まれることにより、千波湖が形成されました。

江戸時代の千波湖

 江戸時代の千波湖は、軍事面においては、水戸城の北側を流れる那珂川とともに、天然の堀となることで、水戸城の防衛上重要な役割を担っていました。
 また、千波湖は、庶民の暮らしと密着した存在でもあり、その水は、「備前堀*」によって、毎年干害に悩まされていた城南低地にもたらされました。
 江戸時代の後期に出された「水府志料」によれば、当時の千波湖は、現在の柳堤橋付近にまで及び、その面積は、386,364 坪(約1,275,000 平方メートル (1 坪を3.3 平方メートル として計算))で、この数字を現在の面積(約332,000平方メートル)と比較すると、約3.8 倍の面積があったことがわかります。

江戸時代の千波湖

 

* 「備前堀」は、初代水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)の命により、慶長15(1610)年、関東郡代伊奈備前守忠次(いなびぜんのかみただつぐ)を中心として、毎年干害に悩まされていた城南低地の村々の農業用水を確保するため、千波湖の水を涸沼川に注ぐように整備されましたが、同時に、千波湖の溢水予防を兼ねたものでもありました。

明治・大正時代の千波湖

 明治22(1889)年の水戸鉄道(現在のJR水戸線)の開通により、千波湖の北側に水戸駅が整備されると、市街化を目的とした一部埋め立て(水戸駅周辺部分)が計画されました。また、同時に付近の水田の冠水防止を目的とした水位調整といった課題が浮上してきました。そのため、水戸市、千波湖周辺の村、水利組合などの関係団体が協議を行い、それぞれ解決策に取り組みましたが、抜本的な解決には至りませんでした。
 その後、千波湖は、大正時代の始めごろから荒廃等が目立つようになったため、解決策として、千波湖を干拓・開田する事業計画が立ち上がり、県の事業として、総面積(約1,190,000平方メートル)の約3 分の2が干拓・開田され、残りの約3 分の1 が貯水池及び風致湖となりました。
 この干拓・開田事業によって、現在の千波湖が形づくられました。

大正時代との比較

古い千波湖の写真